ぺぺぺぺのブログ

大学院の受験と博士論文の準備と資格試験の準備とアイ○ンマンレースとニコ生など配信

すべてに置き去りにされている感覚について

 何がそんなに不安なのか?それをじぶんなりに考えてみることにした。現在の状況からして働けない、普通のレールからそれてしまったということ。軌道修正をいち早く行わなければならないはずなのに、頭の中では2ちゃんねる流の批判的意見がぐるぐる回っている。それこそネットを絶った方がいいレベルで悪影響を及ぼしている。これは幻聴に言われたことだが。世の中のすべてが自分を置き去りにしている気がする。ブラック企業はポエムかするというが、壊れた精神も悪い意味でポエム化するらしい。明確なものは何もなくなんとなく暮らすことができているのになんとなく不安になる。なんとなくの不安を垂れ流すようになる。ネットの毒が頭に回っているのだろうか。それは自分が広汎性発達障害ということも考えあわせなくてはいけない気がする。他人の悪意に敏感で鈍感な私は、ネットの悪文を読むともなしに流し読みすることで自分の精神を汚染したのだろう。仕事もなく、友達も彼女もおらず、趣味もなく、学業はかろうじて進めているという浪人生のような状況は、ニュースも読まず、世の中の情勢と関わることもなく(ネットのニュースまとめはあまりまともとはいいがたい、なにより爽やかな現実感がない)なにも生産しない。まるで世界が停滞しているかのようだ。外を見れば各種企業の車が休みなく外を走っていることはわかるが、ではそこで自分が何ができるかがわからない。まあ働いていないので当然といえば当然だが。
 余裕があって、時間を浪費している自覚がある。人生の貴重な時間を。自分という人間の評価を極端に低く見積もるのがネチケット(死語)のようだが、ここでは真逆の立場をとりたい。夢と未来のある青年として自分は何をなすべきか。このべき思考もあまりよくない点だと思うが、言語化する際の癖のようなものだ。ほかの表現はあるだろうか。
 創作の世界では停滞は悪い気がしなかったがいざ味わってみるとたちの悪い悪夢のようだ。明確に言語化できないという点で創作とまったく違う性質をもったこの現実は、一歩一歩、自己によって解釈する必要がある(こう書くとき私は優等生でいられる)。その記録としてこの日記のようなものは青春の苦闘を記録することになるのだろう。もはや青春ではなく朱夏だろうが、古代中国の頃から寿命も少しばかり延びていることだし、青春のまねごとを今でもしているわけだし、青春ということにさせてもらう。医学部は6年間もあることだし。まあ学業に追われて青春どころではないという悲鳴が巷のブログからはよく聞こえてくるところだが。とはいえ勉強をしているとあの苦しくも美しい(自分で言うなって?自分でいうことに主体的価値があるのだ)日々がよみがえってくる。素晴らしき日々である。エロゲではない。もう筋もほとんど覚えていない。ゲームとしてはとても楽しかった気がする。毎日を勉強にしか傾けなかった自分は、今勉強しても思い出すのは勉強のことばかり。先生の口ぶりや、説明の仕方とか、少しは友達と話した記憶もあるが、勉強のことは少ないので残念ながらよく思い出せない。なぜかというとあまり集中して勉強しなかったからである。それはマーチという結果からわかる通りである。マーチもマーチで最大限好意的に解釈すれば難関大という呼ばれ方をすることもあるらしい。それを知ったとき何かホッと一息を付けたような、肩の荷が下りたような気がしたものだった。なんで誰に恥じることがあろうか。しかし三流大という烙印は結構きついものである。
 ある日ある時、電車に乗っているとき、ふと耳にしたことである。「三流大」。統合失調症の症状だとこれが自分を標的にした悪口の攻撃であるということになるのだが、今は幸いそこまで症状が悪くなってはいないのでもう少し分析的に書くとすると、たまたまどっかの人が喋ってたことがたまたま耳に入ったということである。分析もくそもない。ただ自分の負い目が、大学受験をあまりがんばらなかったという負い目が今にして自分をさいなんでいるのである。病気のせいで幸か不幸かやり直すチャンスを持っている私としてはなにくそと奮起すればいいところである。が、そこには少し複雑な事情がある。展開できないのである。言語が貧困すぎるのか、人生が貧困すぎるのか、そもそもやり直せている気がしない閉塞感があるからなのか、前に進めない。まーたポエムである。ポエムに始まりポエムに終わるのであった。めでたくなしめでたくなし。
 外の世界に踏み出すことができないのである。これまでの人生で大体それで人間関係を失ってきた。せっかく手を差し伸べてもらっていたというのに、そのせいで結局誰とも分かり合えなかった、少なくとも言葉のやり取りで、自立した、あるいは自立しつつある人間同士としてかかわりを持つことができなかった。それが私の負い目であり、トラウマであり、翻って誇りである(ここ笑うところ)。
 世界が広がる経験がないので、創作のドラマティックな展開にもついていけない。ゲームのストレスがかかるシナリオにも耐えられない。小説は言うまでもなくまともに読むことができない。古典はただ文字を声に出して読んでいるだけ。これが現状。自己批判(笑)してみたが、これは親が死んだら治るんだろうか。治らなければ生活保護、あるいはホームレスなどを経て死ぬことになるのだろう。それはちょっと避けたい事態である。
 何もできないのが嫌で小説を書いてみたことがある。エロゲを作ってみたことがある。どれもまねごとでやり切ったとはとても言えないような代物ばかりだったが、一応経験がある。そして、やはり世界が閉塞していく感覚を最後に筆が進まなくなる。それはどれも同じだった。自分がどこか狭いところに引きこもってしまって、ほかのみんながどこか広いところで楽しく遊んでいるところに背を向けているかのような錯覚というか確信がある。それが妄想であろうか。否、世界のどこかにはきっとそんな場所があるはずである。ただ自分にはこれまでもこれからも巡り合えないであろうだけで、どこかにそんな楽園があるはずである。でなければこの幼い全能感が報われない。ここで、そんな楽園を探しに行こうとならないのがニートのニートたるゆえんである。まあリトバスではそんな優しい世界が見れたのでうれしかった。ニコニコ動画が流行っていると聞いた時も参加しなかった。できなかった。怖かったし、自分が否定されるような気がした。優等生な自分が否定されるような気がして特にニコニコは怖かった。学校以外のすべてが怖い。いや、もはや学校でさえも得点が取れないのだから自分を脅かす恐ろしいお化け屋敷とたいして変わらない。自分の居場所なんてどこにもないのだと腐っているような気がする。
 エリートになりたい。なるしかない。残っているのはそれだけである。もはや遺書とそう変わらない文章を書いているのではないかと思ったとき背筋に冷や汗が垂れた。これが現実感というやつなのだろうか。エリートになれてもなれなくても、社会とのかかわりにおいてこういった冷や汗は避けては通れないだろう。もういやだ。生きていくのが辛い。生きないのも辛いが、生きるのはもっと辛いんだったと思い出したところで、今日はこの辺にしておくことにした。

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